親の苦労見て育った少年期
1949年(昭和24年)奈良県天川村に生まれる。2才の時、ダム建設の疎開で和歌山県橋本市へ開拓団として入居。 父親は定職がなく日雇いで働き、母親も町工場へ勤めにでましたが生活は若しかった。両親の苦労をみていて「一日も早く働き、助けたい」と思っていた少年期でした。 中学卒業後「勉強もできて給料ももらえる」との魅力から、当時全盛であった養成工(3年)として、富士車輌(株)入社し、溶接工として卒業。
第一線の労働者として奮闘
20才の時、川崎製鉄(株)主催の溶接コンクールで優勝するなど、職場の第一線の労働者として奮闘。この頃、労働組合の職場委員におされ、仲間の生活と権利を守る活動の第一歩をふみだしました。 22才の時、公子夫人と社内結婚。一家の大黒柱としても職場や組合運動の分野でも奮闘の日々でした。
先輩の死、怒りから社会の矛盾に
そんなある日、先輩労働者が職場で死亡する事故が起こりました。この労働者は、一人で作業している同僚を見かね、手伝いに行った時に突然ワイヤーロープが切れて、つり上げていた鉄板の下敷きになったのです。会社の幹部は、この事故に対し月始めの朝礼で「本人の不注意で起こった事故です」と平気な顔をして報告しました。 北村さんは、すぐに立って「ちょっとまってくれ、会社の人べらしの中で起こった事故やないか、会社の責任がまったくないようなことをいうな」と抗議しました。 三百人近くの労働者がびっくりして一斉にふりむいたそうです。北村さんは、この時のことを「人べらし合理化がすすんでいたときだけに、会社幹部の発言を聞いていて、労働者を機械や道具と同じように扱っていると、強い怒りがこみ上げて思わず大きな声をだした」と語っています。 働く仲間を思うやさしさと正義感が、非人間的な扱いへの怒りとして現れた一コマであり、同時に、社会の矛盾に目をひらくできごとでもありました。
憲法守る草の根の運動と、「住民こそ主人公」の市政めざし、みなさんと力あわせて頑張る
そして、「戦前、侵略戦争と絶対主義的天皇制支配に屈伏しなかった唯一の党、人が人として尊ばれ、働く国民が主人公になれる社会をつくろうと頑張っている、勇気ある日本共産党を知り感動」「歴史の歯車を少しでも前進させる力になれば」と入党を決意したのが、24才3月12日の誕生日でした。
その後、組合の執行委員としても奮闘。党と地域の人におされ、狭山町議に立候補、初当選したのが26才。それから8回目の当選、常に「身近に役立つ議員」として「住民こそ主人公の市政」をめざして誠実に活動している北村栄司市議です。
そして、いま、リストラや倒産での失業、青年の雇用不安、75歳という年齢になっただけで差別されるの後期高齢者医療制度、障害者の声を無視した障害者自立支援法、実態に即していない介護保険、低額な年金制度など、多くの人たちが将来への大きな不安を抱えて、地方自治体に対する地方交付税や国庫負担金・補助金の削減等々、自公政治がもたらした弊害は挙げればきりがありません。この自公政治を退場させた国民の力はすごいものです。新しい政権を生み出しました。少しでも良くなってほしいと国民が期待しています。日本共産党は、「良いことには賛成、悪いことには反対、問題点は正す」という「建設的野党」として頑張る事を表明して活動をすすめています。
北村栄司市議は、「市政の場でも『良いことは賛成、悪いことには反対、問題点は正す』との立場でやってきた、これからも市民のみなさんと力を合わせ、「子どもやお年寄り、障害者を大切にする、市民にやさしい市政』をめざして全力で頑張ります」と力強く語っています。狭山駅のバリアフリー化(エレベーター二機、車椅子も利用できる多機能トイレの設置)も10年、議会質問、署名活動、利用者アンケート、南海電鉄への要望書提出など粘り強い取りくみが実を結んでいます。また、「オバマ米大統領の宣言や国連安保理の決議など核兵器のない世界をめざす動きがうまれており、「核兵器廃絶」「憲法9条を守る」などの草の根の運動を大きくすることが大事と訴える北村栄司市議です。誠実でまじめに活動する北村栄司市議への期待がますます高まっています。
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